Rhapsody in Blueを聴きながら

 さいきんになって源氏物語を読み出したというIくんから、高麗人の夢占だと、源氏の子からいずれ天皇と后妃が出るという話だけど、いいのいいの? と質問される。兄妹あるいは姉弟同士にならないの、としんぱいしているらしい。でも帝位につくのは藤壺とのあいだの子で、明石の上とのあいだの姫が入内するのは朱雀帝の子の御世だったと思う、と解説したらなっとくしたふうだった。
 でも、そんなこと言い出したら、藤壺はたしか桐壺帝と異母兄妹だし。紫の上の父は藤壺と同母の兵部卿宮、葵の上の母も桐壺帝の妹だったから、源氏のおもだった北の方は、いまの感覚なら従姉妹ばかりになってしまう。私、このひとたちの家系図を書くのいやだなあ。ぜったいこんがらがると思う。
 そういえば、例の夢占は源氏の三人の子しか語らないことによって後年のある出来事を示唆していてるのよね……、と仄めかしたら、わあ、しゃべらないで、ぼくがそこまで読むまでないしょにしてて、と懇願されて、女三の宮と柏木とのことは話せなかった。ちぇ。
 それにしても物語のなかの予言だの託宣だのは、のちのちひとを「あ」と言わせるためだけにあるようだなあ。たとえばマクベスの「女から生まれた者は倒せない」だとか、オイディプスの「殺してはならぬひとを殺し、交わってはならぬひとと交わり、なしてはならぬ子をなす」だとか。





 いっぽう、私は村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』。
 以前、べつの邦題の日本語訳を読んだことがあるんだけれど、こんなお話だったっけ、とびっくりする。とくに、いままでは物語のはじまりとして、宿酔の朝の頭みたいな重たさの二章の印象ばかりが深かったのに、あれ、一章って、こんな胸の奥が読んでいてざわざわしたかしら、と思った。
 年を経て、感じ方がかわったんでしょうか。(というか、あんなに年上に思えた登場人物は、いまの私のほぼ同年代なんだわねえ)
 スコット・フィッツジェラルドの略歴を調べていたら、私の大好きなジョージ・ガーシュウインと生没年がほとんどかわらなかった。
アメリカが生んだうつくしいものは、クライスラー・ビルと、コークのボトルと、Macだけ」
 と、つねづねこきおろしていた旧世界派のくせに、フォスターだとか、ドヴォルザークの一部の曲とかが好きで、どうもアメリカ音楽だけはべつみたい。そんななかのガーシュウインなのです。
 ガーシュウィンの曲は、聴いていると光が躍る情景が脳裏に浮かんでくる。それもぜったいに人工の光だ。たとえばミュージカルの舞台背景の電飾、たとえばガーデン・パーティで日が暮れて点されたランタン、たとえば独立記念日の花火。
第二次世界大戦前のハリウッドやブロードウェイの楽曲を聴いていると、二十世紀がアメリカの世紀となるのはむべなるかな、という気がする。音楽が予兆を孕んでいる。あの、かろやかさ。十九世紀までの時間なんか、絵画や書物や楽譜のなかにしか存在しないみたいな)
 ラプソディ・イン・ブルーを聴きながら、『グレート・ギャツビー』を読んでいるところ。読み終わったら貸してね、とIくんに催促されているので、ちょっとあせる。