太田尚樹『ヨーロッパに消えたサムライたち』

 いちにちオフィスにいるつもりだったのに、電車で30分ほどの客先へのおつかいを急遽いいつかって、でもそんな日にかぎって携帯電話もPHSiPodニンテンドーDSもバッグのなかに入っていなかった(なにこの気の抜けよう。いくら徒歩通勤とは雖も)。エキナカの本屋さんでかねがね目をつけていた鹿島茂『パリの秘密』*1は手にしたらびっくりするくらい汚れていて断念。えーいままよ、と乾坤一擲の大勝負に出たらこれが大当たり。
 スペイン、セヴィリアにほど近いちいさな町に、その名も「ハポン」という姓を名乗る人びとがいて、この血統にだけはなぜか幼少時に蒙古斑が見られるという。十七世紀、伊達政宗が南蛮に遣わした使節団のうち何人かが日本に帰国せず、この地に定住して彼らの祖先となったのではないか、というのがこの本のテーマ。
 仙台藩士支倉六右衛門常長が大使であったことから支倉遣欧使節団とも呼ばれるこの外交使節団、慶長使節の存在があきらかになったのは、明治期、岩倉具視の欧米視察団がヴェネツィアの古書館で支倉の署名入りの日本語の書状を見せられたのが発端だったという。
 支倉常長岩倉具視、いまの私たちから見ればどちらもヨーロッパを訪れたサムライだけれども、二百五十年もまえの墨痕を目の当たりにした岩倉具視の驚愕はどれほどだったろう。ユーラシア大陸の端と端、ながい鎖国の江戸時代の端と端、はるかな時間と距離を経て、まるで夢物語のようだったろうか。
 支倉常長が欧州を訪れた経路は、日本海から大陸沿いにインド洋へ、というルートではなく、太平洋と大西洋を越えたというから、すごい。徳川幕府が外交の相手を南蛮ではなくオランダに絞ったので、おおっぴらには行けなかったというのがその理由(政宗は南蛮と組んで奥州の独立を画策していたらしい)だけれど、陸奥国金華山沖からなら黒潮にのって新大陸に行けただとか、どきどきしてしまう。
 この太平洋を越えた船は政宗の指示で建設されたサン・ファン・バウティスタ号といい、のちにイスパニア艦隊に統合されたという。支倉使節団は欧州のどこでも歓待されたけれど、ジェノヴァではとくに手厚いもてなしを受けた、ジェノヴァジパングを目指したコロンブスの故郷だった……とか、ようするにこれは浪漫の物語なのだ。
 支倉常長は帰国したものの彼の日記は散逸してしまい、使節団の一部がハポン一族の祖となったという確たる証拠はないという。セヴィリアはあのカルメンを生んだ場所だから、使節団の若い随員が現地の娘と懇ろになって骨を埋める気になってもむりからぬ、という一節は、だからかぎりなく夢想に近い浪漫の話。でも、ほんとうだったらいいな、と思える夢想だ。

ヨーロッパに消えたサムライたち (ちくま文庫)

ヨーロッパに消えたサムライたち (ちくま文庫)