心がとけてしまわないように

 Iくんの引越し先はなかなか片付かない。それというのも、私は資格課程の進級試験、Iくんはビジネススクールの課題を抱えていて、定時退社して帰宅するなり、あっちの部屋とこっちの部屋にわかれて、おのおの、黙々と勉強する日々が続いているからです。ガスレンジを買いに行くひまもないので、調理器具といったら電子レンジとティファールの電子ケトルしかない。それで、夕ごはんはふたりで外に食べに行く。
 以前Iくんが住んでいた空と森ばっかりの町は、お買い物といえば、日曜日、スーパーに自動車で買い出しがおきまりの土地柄だったので、平日の夜にふたりで商店街をそぞろ歩きするというシチュエイションが、ものすごく新鮮。夕ごはんのついでに、朝食用のパンや果物を買って、穴場っぽいフレンチのお店や、古式ゆかしい銭湯や、店じまいの遅い八百屋さんを見物しつつほっつき歩く。新しい街はマンションの多いところで、宵の口には、会社帰りのお父さんや部活の終わった高校生、お惣菜を買いにいくお母さんたちがたくさん行きかっている。そのなかを回遊する。
 そうしていると、なんだか。スケジューリングに必死になりながら勉強したりなんて、しなくてもいいんじゃない? 立身出世なんて望まず、のんびりゆっくり、おいしいものを食べて、本を読んだり音楽を聴いたり、つましく暮らすのもよくない? という考えが頭をもたげてきて、慌てて、いかんいかん! と、ふたりで、誘惑に負けそうな気持ちを振り払う。「いまの暮しで満足です」なんていうせりふは、十年後にいうのでも遅くないはずだ! そして十年後にそのせりふを、負け惜しみや諦めの気持ちなしに、本心からいえるように、いま貪欲にすごしているのよ私たちは!
 でも、おいしいものを食べたあとに、灯りのやわらかい、しあわせそうな街のなかをふわふわ漂っていると、心がとけてしまいそうになる。私たちの心はこんなにかんたんだったのね、って、それがきっと引越しして最大の発見。