穂村弘という幻想の共有

 ひさびさにほむほむウィーク。

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 歌論集は、私にとっては基本的に、「私のまだ知らない、好みの歌を詠むひとがいないかしら」と、つぎに読む歌集のあたりをつけるために読む本なのだけれど、穂村弘のこの本は、読んでいて心がひりひりして、歌論を読んでいるような気がしなかった。
 とくに第六章「短歌と〈私〉」。短歌も、俳句も、川柳も鑑賞するのは好きだけれど、将来的にもしなにかひとつにチャレンジするなら俳句だなあ、というか、短歌を自分がつくれる気がしない、とぼんやり考えていたことの答えを、これを読んで得たような気がした(大学時代に講義で詠んだことがあるけれど、それはいちどだけだったし、この場合「つくる」というのは、複数回にわたって、ということでしょう)。十七文字の俳句や川柳とは違う、三十一文字ある短歌は、作歌した本人でもコントロールできないものを晒すような、新しい生き物が同時に産み出されてしまうような、なにか畏れに似たイメージがあるなあ、ということを再認識。
短歌ください (ダ・ヴィンチブックス)

短歌ください (ダ・ヴィンチブックス)

『短歌ください』は雑誌の読者からの投稿短歌をまとめたもの。作品のあいまにぽんぽんと挿入されるコメントがテンポよくて読みやすい。
 ところで私、一首の短歌についてほめるときの、「この一首は○○という語の部分が秀逸。○○が違って、例えば××だったら、あたりまえすぎてつまらないでしょう?」と改悪例として繰り出されることばの、形としては整っているし、ありがちなのに、たしかに短歌としてつまんない出来になっている……というのを読むのが好きです。
もしもし、運命の人ですか。 (MF文庫ダ・ヴィンチ)

もしもし、運命の人ですか。 (MF文庫ダ・ヴィンチ)

『もしもし、運命の人ですか。』は、ほむほむの十八番(だよね?)の、恋愛エッセイ。「ここ昔、森だった?」という同行者のひと言から始まるエピソードは、光の速さで展開される美しくもばかばかしい妄想と、それを紙の上に文字で表現しきるほむほむの筆力とあいまって、最高だった。最高にくだらなく可笑しかった。どの章もおしなべて自己の恋愛に対するだめっぷりを語っているのに「でもこのひと、もてるんだろうなあ」とふっと読者を我に帰させるなにかがある。
 穂村弘はひとりだけなのに、読んでいて楽しいコメントも、ひりひりする歌論も、この人だめすぎて目が離せない……! と思うエッセイも、ぜんぶ印象が違っていて、なんだかひとりのひとに思えない。自分のイメージの露出にものすごく長けているひとなのかしら。穂村弘のエッセイを読むというのは、作者と読者のあいだでその幻想の「ほむほむ」を共有するようなものなのかも、と思いました。

「ふたりきりになると、突然、幼児化する男性がいて驚くんです」と彼女は云った。
 内心、ぎくっとしながら、さり気なく訊いてみる。
「それって、やっぱりまずいですか」
「え? だって幼児プレイですよ。馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしくて、そんなものにとってもつきあえませんよ」
 きっぱりそう云われて怯んだが、おそるおそる申告してみる。
「あの、僕、割と、幼児化するんです」
「え、ああ」と云って、彼女はちょっと目を逸らした。
「それは、でも、まあ、ほむらさんは、ねえ」となんだか解らないフォローだ。
「ええ、まあ」と私も頷いておく。

「ほむらさんは、ねえ」と言われてしまううえに、「ええ、まあ」と頷いてしまうほむほむが、あまりにもほむほむらしくて、うううん、と唸ってしまった一節。