『あのときわたしが着ていた服』

 物語に出てくる、お洋服の描写が、子どものころから好きです。
赤毛のアン』のふくらみ袖のドレスはもう、言わずもがなだけれど、ジュディが「こんな服を買いました」とあしながおじさんに報告する手紙や、『若草物語』でメグとジョオのためにマーチ夫人が考えたパーティードレスの工夫(一枚のドレスに対して色違いのオーバースカートを複数枚誂えて、違うドレスのように見せる、という方法でした)だとか、昔読んだ本にはわくわくするお洋服の描写がたくさんありました。モスリン、ポプリン、別珍、繻子。魔法の呪文のようでした。
 でもさいきんの小説にはあまり、服装のことが出てこなくて、つまらないです。現代では、書いた瞬間に流行おくれになるから、書かれないのかなあ。
(逆に、北村薫とか森博嗣とか「書かなきゃいいのに」というファッションセンスの持ち主は、よく書いているような印象があります)
 閑話休題
アイリーン・ベッカーマンの『あのときわたしが着ていた服』は、その題名のとおり、1940年代のマンハッタンに生まれたある女性、著者自身の、人生の折々に着ていた服について書かれたノンフィクションです。お洋服の描写がどっさりで、「そうそう、あのころは、たしかにあんな服が流行りだったね」とノスタルジーをくすぐられる類の、楽しい本かとばかり思って読みだしたのに、じっさいは、もっともっと、圧倒される内容でした。
 一着目として書かれているのは、ガールスカウトの制服。二着目のオーバーにはとくに「既製品の」と書かれており、幼少期の服はほぼすべて、彼女の母親のお手製です。母親の死後、父親とデパートで買った紺色のケープつきのワンピース。ハイスクール時代の、『麗しのサブリナ』のようなサーキュラー・スカート。17歳年上の最初の夫が好んだノースリーブのチャイナドレス、これを着て赴いたパーティーで、夫の浮気現場を目撃してしまう。二度目の結婚後に着たタフタのマタニティードレス。子どもが小学校にあがったあと、仕事を始めようと面接用に買ったウールのパンツスーツは、初めての通信販売での買い物でした。二度目の離婚後、自分ひとりの収入のなかで一年かけて支払いを終えた毛皮のコート。自身の二度の結婚式では白いウェディングドレスを着ることはとうとうなかったのに、長女の結婚式に着たのは、白いシルクのピラミッド型のドレスでした。そして孫娘に勧められてトライしようとしているピンクのスカーフ……。
 あくまで服やファッションにまつわる文章の羅列なのに、まるで一冊の長編小説を読んだよう。ひとりの女性が着ていた服についての本は、ひとりの女性の人生についての本なのでした。各々の服について、文章とともに、著者自身によるイラストが添えられています。これが、じつに稚拙で、思い出話のついでに、そのあたりにころがっていた色ペンで、紙ナプキンのはじに描かれたような風情なのが、いかにも記憶の底からよみがえったようで、妙なリアルさがありました。これが写真だったらきっと、記憶というより、記録のようで、逆に印象がぼやけたことでしょう。
 あのとき、わたしが着ていた服は、なんだったろう? だれの人生にも、思い出に残る服、あるいは、忘れがたい出来事のときに着ていた服の記憶は、ある。鎧のように、身に纏うことで己を鼓舞してくれた服。毛布のように心を包み守り、慰撫してくれた服。あるいは自分がブーケのなかの大輪の花になったような気持ちにしてくれた包装紙のような服。そんな過ぎ去った数々の服の記憶を呼び起こして、読者のなかにそれぞれの『あのときわたしが着ていた服』という本を一冊綴るような力のある本でした。「ニューヨーク・タイムズ」のブックレヴューのことばも秀逸。

この本は、きらきら輝く小さな宝石のよう。ティファニーの、あのブルーの小箱におさまったプレゼントにも匹敵する、すばらしい1冊だ。

 初めてティファニー・ブルーの小箱をあけたときの、あの気持ちを思い出させる。読者の経験や記憶と響きあって、共振する音叉のようなこの本に、なんともふさわしいレヴューだなあと思いました。

あのときわたしが着ていた服

あのときわたしが着ていた服