ピアノのある部屋

 Iくんの部屋にはピアノがある。
 私もピアノが弾けたら楽しいかしら、と呟いたら、自由につかっていいから弾いてごらんよ、という返事。
 昔、自宅にも母のアップライトがあって、ピアノを習おうと思えば習えたのにどうして子どものころの私はそうしなかったんだろう、とわれながらふしぎに思っていたけれど、ひざびさに鍵盤を叩いたら、なぞが氷解した。私の手はちいさすぎて、鍵盤を押さえきれないのだった。とくに難儀なのが左手。私は左利きで、どちらかといえば器用なほうと自負していたのに、とんでもないおぼつかなさだ。自分の身体の一部、それも利き手の不器用さを、いまごろ、こんなかたちで感じ入る日がくるなんて、ゆめにも思わなかった。
 おとなの初心者のための教本には、楽譜の読み方や演奏前の指のウォームアップ方法のほかにピアノの歴史のページがあって、ハープシコードチェンバロ、グランドピアノやアップライト、そしてクラビノーバ……とつづいていて、
「ふうん、クラビノーバって商品名かと思っていたけど、あれは普通名詞だったのねえ」
「そ、そんなわけないでしょ」
 ……ヤマハの本でした。

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 そんなわけで、「きらきら星」から。
 模範演奏を見せましょう、と、さいしょ楽譜どおりに弾いたあとIくんが即興で聴かせてくれのが、和音も多くて、まるで満天の星空をひと晩シャッターをひらきっぱなしで撮った写真のようなにぎやかさだった。大学では僕がいちばんピアノが巧かったんだよ、というIくんのことば、いままでは、うっそだあ、ととりあわずにいたけれど(だって私がサティやガーシュウインをリクエストすると、ミスタッチするたびそれはそれはへこんで、顔を見ただけで「いま、へましたんだな」ってわかるんだもの)、ちょっと信じてあげてもいいかな、と思った。