氷室冴子死去

 氷室冴子の訃報から、もうひと月だ。
 実家の書棚には未だに捨てられないコバルト文庫の『銀の海 金の大地』11冊のピンクの背表紙がならんでいて、作者の創作意欲が高いことはあとがきのはしばしから伝わってくる物語だったのに、どうしてつづきがでないんだろう、と、それらを見るたび十数年来ふしぎに思っていたのだけれど、その訃報で、やっとなぞがとけたのだった。闘病生活にあったのか。
 作家の死、というのは、ひとひとりの死ではなくて、物語のなかの幾十人、幾百人の人生も途絶してしまうことなのだな、と思った。
 氷室冴子死去のニュースには枕詞のように「少女小説の第一人者」だとか、そんなことばが添えてあった。「少女小説」という単語はなんだか、どこかべつのところにあるほんとうの「小説」を、希釈して砂糖をまぶしてリボンをかけたような、愛らしさと軽侮とを同時に感じる字面だ。でも、その一方で、私が読んだ氷室作品は、大人の鑑賞にも耐え得る内容だったけれど、少女のときに読んでおくための小説だった、その意味ではあれはたしかに「少女小説」だったという気がする。私がいちばん印象深かったのは、『銀の海 金の大地』のなかの、「私という名の王国」という章のなかの一節。ひとはだれでも心のなかに王国をもっていて、そこで王として生きるか奴隷として死ぬかは本人が決めるのだ、と。
 あの小説を読んでいたころ私はまだ未成年で社会経験もなくて、でも本を読むことで、いつか社会に出たとき、だれかを愛しく思うことや憎むこと、頭をあげて生きていくことの練習をしていたような気がする。
 そういえば、あのころ、あの物語の主人公、真秀と、同い年だった、私は。
 その年頃に、続巻の発売日が来るたび書店に走る気持ちを抑えられないような、大好きな本と出会えていたことを、とてもしあわせに思います。