地名じゃなかった

 さて、これだけで帰るには惜しかったので、片倉シルク記念館*1へ。
 なぜそこへ行こうと思ったかというと、長い前置きが必要なのです。
 さいたまスーパーアリーナのあるあたり、いまはさいたま新都心と呼ばれている一帯は、以前は建物といえばイトーヨーカドーくらいで、わが家ではそのあたりを「カタクラ」あるいは「カタクラパーク」と呼んでいました。私はそれをずっと地名から発祥した名称だと思っていたのですが、社会人になってから出張で茨城県取手市に行ったら、ここにもカタクラショッピングセンターがある。「カタクラって地名のところは、よくショッピングセンターになるんですねえ」と思わずつぶやくと、「カタクラって地名じゃないよ! 片倉財閥の土地ってことだよ」と先輩。えええ。なにそれ。地名じゃないの? 
 ……調べました。片倉財閥は蚕糸事業により一財を成し、二代目片倉兼太郎は「シルクエンペラー」と呼ばれるも、戦後の財閥解体により解散。現在、片倉工業は製糸業からは撤退したものの、広大な工場跡地を生かして不動産運営・賃貸・小売事業等を行っている。
 知らなかった……。でも財閥だとかシルクエンペラーだとか、まるで『絡新婦の理』みたい!
 この片倉工業のさいごの製糸工場が熊谷にあったそうで、そういえば熊谷はむかし養蚕農家がたくさんあったと読んだことがある、あれね!
 ……というようないきさつで、足を伸ばす気になったのです。
 工場跡地の一画にあるという片倉シルク記念館はサティの隣。おお、不動産運営・賃貸業。図書館の司書さんに描いてもらった地図に従って歩くけれど、イオングループの建物のつねで、看板は見えるのになかなか着かない! やっとたどり着いたところは、思っていたよりきれいな建物。受付にいたおじさんに「お姉さんひとり?」とナンパのように声をかけられ、パンフレットをもらいます。と同時に、館内のエアコンが稼動しだした音がします。来館者は私だけらしい……。
 で、元・工場の建物にパネルがおざなりに置いてあるようなところかしらと予測していたのですが、意外にも(失礼)充実していたのです。まず展示物の機械や繭はぜんぶ本物。日々の生産高をチョークで書いた黒板も、検査用の機械が展示されている場所にある「製品検査室」の札も。たちのぼる説得力。またパネル展示もわかりやすく、照明のランプシェードがさりげなく繭型だったり、センスがいいのです。紹介ビデオに到っては、センサーによる自動再生。
 予想外だったのは、製糸のしくみや片倉財閥の歴史のほかに、製糸所で働いた女性たちの女子寮の紹介が多かったことで、元従業員の来館者向けなのか、これがなんだかほほえましくおもしろいのです。がらんとした女子入浴場の写真などは、ちょっと小川洋子の『薬指の標本』の雰囲気。
 さきほどのおじさんが現れていろいろな説明を。片倉財閥がどれだけ財閥だったかって、靖国神社の大鳥居と狛犬を奉納したくらいだったらしいですよ。ざいばつってば……。おかねもちなのね!
 つづいてお隣の蜂の巣倉庫へ。この建物は2階部分が蜂の巣のように細かな小部屋に仕切られていて、ここが繭をみっしりと貯蔵するところ。小部屋といっても隣の部屋へ行く扉はなく、四方が壁。どうやって繭を出し入れするかというと、3階部分の床(つまり2階部分の天井)に蓋があるので、これを開けて繭を流し込む。出すときは1階部分の天井(つまり2階部分の床)にある蓋を開けて、下にひらいた袋に落とすというしくみ。え! 倉庫内の出し入れが重力?! しかも2階だけでふつうの建物の2フロアぶんの高さ。それくらいじゃないと工場の操業の間に合わなかったんだそうです。「戦前の日本にとっての生糸はいまの日本にとっての自動車といっしょ」とはおじさんの弁。なっとく。
 解説のお礼を述べたあと、「ところでここから熊谷駅までってどう帰ればいいでしょう。バスですか?」と訊いたら、「若いんだから歩きなさい」というおへんじ。ごもっとも。でももう足が15分の道のりに耐えられそうもなかったので、徒歩5分ほどの上熊谷駅から秩父鉄道に乗って、熊谷で高崎線のがらがらのグリーン車に乗り換え、はしたなくも足をのびのび伸ばし帰宅。秩父鉄道ってメルヒェンな駅名が多いわ、「御花畑」だとか「影森」だとか。というのが、きょうのさいごの発見でした。