疑惑あるいは願望

 まいにちの悩みのたねは、お味噌汁の具です。あれこれ工夫をしているつもりでも、けっきょく、似たような内容になってしまう。冷蔵庫のなかの野菜やきのこと、わかめ、油揚げ、お豆腐の、いずれかの組み合わせ。たまに貝類やお麩、とろろこんぶなど。
 ……という悩みを実家で祖母に相談したところ、それはそういうもんである、という答えだったので、そういうもんなのね……と諦めたのだけれど、よくよく考えたら、私は祖母の料理を食べて育ったので、祖母のつくるお味噌汁がそういうレパートリーだったから、私もその頚木から逃れられないのでは……という可能性に気付きました。
 世間では、どうなっているんでしょうねえ。お味噌汁の具。
 この「頚木」を意識してしまうのは、お鍋の季節だからです。私ずっと、お鍋っておいしくないと思っていた。社会人になって忘年会などにお鍋料理が出て、なんでこんなものをわざわざお店でって、ふしぎに思ったくらい。実家では、つねに水炊きだったんですね。昆布と、鶏肉でだしをとって、お肉がもそもそになっている、あれ。この世にはいろんな味のお鍋があって、それなりにおいしいし、自宅でもそんなに難しくなく食べられると知ったときは、すごーくカルチャーショックを受けたのでした。
 じゃあお鍋を頻繁につくる(という動詞でいいのか、あれは。「する」くらいが妥当?)ようになったかというと、やっぱりなんだか忌避感が先にたってしまってそんなことはないんだけれど、これもまた、つくる料理は食べてきた料理の範疇をなかなか越えられないという証左ではないかしら、と思ったりもします。そんなわけで、家庭料理には、どうも、私が知らないことすら知らない、おいしいものがまだなにかダイアモンドの鉱脈のように眠っているという疑惑あるいは願望がぬぐいきれないのでした。