趣味の楽しみのようなこと

 主人の実家へ遊びに行きました。例の、ニットの貴公子好きの主人の祖母(って嫁から見たらなんて呼べばいいんだろう)のため、先日のトークショウ(id:moony:20100508#p1)のことを土産話に。
 トークショウ会場に展示されていた貴公子のニット作品は撮影OKだったので、iPhoneで撮った画像を見ながら、キャッキャッとニット談義に花を咲かせました。が、おもむろに、
「でも、こういうのを着ているひとは、じっさいにはいないわよね!」
 と、ほがらかに断言されて、あっ、それは言ってもよかったんですね?! と安心するやら吃驚するやら。
(着るためのニットというより編むためのニットが貴公子の作品。しかしそれを言っちゃあ、手芸のたいていは、できあがりを使う楽しみより、作っているあいだの楽しみのほうが勝るし)
 その貴公子のニットも、先日の古書市(id:moony:20100714#p2)で見つけたすてきな和装コートの編み図も、揃ってアフガン編みでした。アフガン編みって名まえはよく聞くけれど、どんなふうに編むんですか、と訊くと、こうするのよ! と目の前でするすると実演。アフガン編みの編み針の、あのふしぎなかたちの理由はそういうわけだったのか! と呑み込めて、大興奮でした。いまはソファカヴァーを編んでいることを伝えると、こういうのでしょ、と完成品のグラニーブランケット(ほんものの「おばあちゃんのひざかけ」だわ)を見せてもらいました。地元のユザワヤが改装移転するので九月は休業だけれど、よりによって編み物の新刊が出そろう九月になんてね! という話もしたり。
 いっぽう、同席している主人も、お姑さんも、編み物をしないひとなので、「この編み図は復路を三目一度ね」などという我々の会話をニホンゴデスカソレ? とでも言いたげな表情で眺めており、同じ室内なのに、なにか温度差が。
「台湾で占いをしたら、絹子は『四十歳くらいで、趣味の楽しみのようなことを仕事にする』って言われたんだよね」
 と主人が口を挟むと、「趣味の楽しみのようなこと」=編み物、と断定されたのか、まあああ! と歓声をあげられました。占いでそう言われたのは事実だけれど、「『趣味の楽しみのようなこと』……編み物じゃなくて、きつけかなあ」と本人は思っていたことなんて、こんな流れじゃ言えない……。
 好きな編み図を持っていってね、毛糸もいっぱい余っているからね、と大盤振る舞いされるなかを、アフガン編みのテキスト二冊だけをいただいて、おいとましました。
「あんなにうれしそうなおばあちゃん、ひさびさに見たよ」
 と帰りの道みち、主人が呟いていたので、そりゃあ、編み物の先生なんだから、だれかに編み物を教えるのは楽しいんじゃないかなあ、それが孫息子の嫁ならなおさら。実の娘(お姑さん)も孫娘(主人の妹)も編み物しないんだもの。と、思ったのですが、ふと思い出したのが、飛びに飛んで、私が中学生だったころの話。
 そのころ、高校受験の内申書にボランティア活動などが加点されるという動きがあって、その例として、老人ホームでのボランティアなどが挙げられていたのでした。
「おじいちゃんおばあちゃんと同居している子が自宅でお話やお世話をしても当たり前のことなのに、外でよそのお年寄りにすると内申点になるんでしょ。へんだと思わない?」
 と、ある日、国語教師との雑談ちゅうの言われて、たしかに、子や孫のいないお年寄りはともかく、みんながみんな自分のおじいちゃんおばあちゃんに優しくすればいいだけの話なのにねえ、となにやら納得しがたい気持ちになったことがありました。
 でも、いま考えると、血縁ではなくて、よそのおとしよりが相手だからこそ衒いなくできるやさしいことやうれしがらせもあるのかもしれません。私だって、きょうのためにトークショウに行ったり、ネタを仕込んだりしたわけだものね。
 それにしても、私の「趣味の楽しみのようなこと」は、なんなのでしょう。あれこれ思い巡らされる、夢のあることばです。